陸奥サイト |
陸奥書庫
歴史抄記(南北朝)2011.05.05
1.鎌倉幕府の終焉と建武の新政 ・天皇が幕府に反乱 社会の混乱を受けて天皇親政を志向した後醍醐天皇が「幕府に反乱」を企て、 一度目は側近の公家が詰め腹を切らされ、二度目は自身の流刑で隠岐に流される。 多くの側近が処罰される中で護良親王はからくも虎口を脱し、畿内で抵抗を続ける。 その中で倒幕側に付いた楠木正成、赤松則村など土豪(悪党)が討幕運動を激化させ、 これを討伐するために派遣された足利高氏(尊氏)が一転して倒幕側に寝返って六波 羅探題を攻略する。また新田義貞が上野国(こうずけのくに、群馬県あたり)で挙兵 し、関東の武士の支持を得て鎌倉を攻略して鎌倉幕府(得宗専制)は終焉する。 ・建武の親政 隠岐から京に戻った後醍醐天皇は念願の天皇親政を実行するものの、旧例や慣行から 外れるものが多かったために反感を買う。直接後醍醐天皇が裁決をして綸旨を書いて いたために、旧領回復令などで膨大になった裁判が滞ったことも一因として挙げられ る。 ・新田と足利 この当時は源平が交互に王朝を守護するという考えがあったようで、平清盛→源頼朝、 頼朝が3代で絶えると北条(平氏)が執政で権勢を振るっていたので、次は源氏なの で新田か足利ということになったが、足利のほうが格が遥かに上ということと、京都 での終戦処理の巧みさから武士の多くが鎮守府将軍になった足利尊氏側についた。 こうした情勢の中で後醍醐天皇は足利勢をけん制するために義良親王を奉じさせて北 畠顕家を東北に配し、鎌倉にも成良親王を奉じさせて足利直義を入らせる。(ちなみ に皇太子となった恒良親王、義良親王、成良親王は寵妃廉子との子) ・護良親王の最後 しかし、征夷大将軍に任じられて程なく解任された護良親王が簒奪の企みを理由に捕 縛されて足利勢の鎌倉に流罪になり、翌年北条時行が信濃で兵を挙げて鎌倉を攻めた 際に(中先代の乱)、足利直義(尊氏の弟)によって殺害されることになる。 ・またも背く 北条時行討伐のために京を離れた足利尊氏だが、鎌倉を奪還した後も帰京せずに鎌倉 に留まり新田討伐と称して軍を集めたため、後醍醐天皇は討伐軍として新田義貞を差 し向ける。新田軍は緒戦は優勢だったものの、箱根で敗れて敗走する。 足利軍も新田軍を追って京に攻め上り、四国からの細川定禅と呼応して京に入った。 その後東北から駆けつけた後醍醐天皇勢の北畠軍や寵臣の楠木正成らの働きにより京 を追われた足利軍は兵庫へ逃れ、元弘没収地返付令を出して武士の支持を再び得た。 ・捲土重来 勢力を立て直すために九州に逃れた足利軍は、大覚寺統の後醍醐天皇と対立していた 持明院統の光厳上皇の支持を得たこともあり、九州で後醍醐天皇勢の菊池武敏を破る など勢力を回復したために再び京を目指して東上する。 京を巡る戦いで楠木正成や名和長年などの寵臣を失い、劣勢を隠せなくなった後醍醐 天皇は足利軍との講和に応じ、三種の神器を足利軍が立てた光明天皇に引き渡した。 ・南北朝 講和して勢力の回復を図った後醍醐天皇(上皇)は戦力が整ったのを見て軟禁されて いた京から脱出し、かつて護良親王が地盤を固めた吉野地方に逃れる(大海人皇子や 以仁王、源義経も吉野に逃れた)。吉野を本拠と定めた後醍醐天皇は光明天皇に渡し た三種の神器は偽物だと主張し、足利軍と北朝の打倒を呼びかけ、半世紀ほど争いが 続くことになる。
|